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ママ、天国でまたパパと一緒になれたかな。



こんにちは。ココマスダです。


コロナ禍の日本に31日間一時帰国して母を看取り、5月13日にニューヨークへ戻る途中、JALの6便の中でこの投稿を書き始めました。


本当は滞在を延ばし、母の思い出に浸りながらゆっくりと事を済ませたかったのですが、ニューヨークで翌日にどうしても外せない用事があったので、滞在を延ばすことはできませんでした。


母が享年84才で永眠したのは、私が帰国してから17日目、コロナ禍の水際対策の2週間の自主隔離が終わって間もない事でした。人が死んでいくのを見守るということの辛さ、不甲斐なさを初めて知り、それまで自分が迷いなく信じていたことが揺らぎ、悩み、母が可哀想で、申し訳なくて、母が見ていないところで泣きました。母は最後まで意識がかなりはっきりしていました。何を考えながら自分の死を待ったのか、それを知る術はありません。


私はこの8年の間に、父と2才年上の兄を、なんと2年違いの同じ命日に亡くしたのですが、彼らはあまりに早く逝ってしまったために死に目には会えず、私が駆けつけた時には、父は火葬をされる直前、兄の葬儀は終わってしまっていました。父の死後は、残された会社のひとつ、債務超過になっている小会社を継ぐことになって、夫を亡くした悲しみで何もできなくなっていた母を支えながら、ニューヨークと東京を行き来する大変な2年半を過ごしたので、父を亡くした悲しみが突然訪れて号泣したのはその責任が終わった後でした。


兄の死には、彼とは長年疎遠だったにも関わらず、自分でも驚くほど影響されました。年齢が近かったからでしょうか。自分に残された時間を考えるようになり、ひとりっ子である娘の負担も考えて終活を始めました。


今回は、私の2週間の自宅待機が終わった後に母に会えるまで、そして東京に住む妹がひとりで母を看取らなくて良いように、点滴で延命する配慮がなされました。と言うより、母の生命力というのがこれまでも尋常ではなく、死んで当然の状況でも生き延びてきたのですが、今回もそういうことだったのだと思います。


母の死因ですか。死亡診断書には老衰と書かれましたが、はっきり言うと餓死です。美味しいものを食べることが何より好きで、食のブランドにもうるさかった母は、皮肉なことに嚥下障害で死んだのです。最後に入院した時は、看護婦さんに「末娘に虎屋の羊羹を買ってくるように言ってください」と要求したとか。虎屋は、『ゆるるか』というやわらかな羊羹を売っているのを知っていますか。妹が見つけてくれた、高齢者のために作られた商品です。母が最後に楽しめた食べ物は『ゆるるか』です。虎屋さん、素晴らしい商品を開発してくださってありがとうございます。行って頭を下げたい気持ちです。

母を介護付きホームに入居させざるを得なくなったのは、2018年の秋に脳梗塞で倒れて半身不随になり、車椅子に座っていることもままならない体になってしまったから。病院からリハビリ病院に移った頃、「私が帰国して自宅介護するべきか。」と悩みましたが、主治医のお医者様が「自宅介護は無理」と判断し、私たちはプロに介護を任せたのですが、私は罪の意識を持ち続けました。


私の両親は、2009年に一戸建ての家を売って、2LDKのマンションに移りました。どちらも東京、大田区の上池台という住宅地です。父はその4年後に亡くなってしまい、母は一人暮らしになってしまったのですが、「大好きなパパと買ったマンションだから死ぬまでここに住みたい」と言い、兄との同居も拒みました。母がホームに入居した後、私は時々連れて帰りたい、と思ったのですが、それも不可能でした。倒れた後はなぜかマンションの記憶が飛んでしまって、「うちに帰りたい」とは一言も言わなかったのが救いでした。


急性骨髄白血病で急死したけれども生涯健康だった父と反対に、様々な病気を経験してきた母は、54歳の若さで直腸癌を患ったのですが、人工肛門をつけることを拒み、一生薬で排便をコントロールする、という方法を選択して、それは完璧な方法ではなかったので、肛門がただれてしまうことが多く、「お尻が痛い」ことが日常となり、半身不随になった後は、長く車椅子に座っていることが難しくなりました。羞恥心が過大だった母は、自分でトイレに行くことも不可能となってしまったのですから残酷でした。

ホームに入居して1年ほど経ってから尿路感染症が起こり始め、尿道結石も併発して入院と退院を繰り返すようになりました。入院する度に飲み込む力が衰え、今年の3月に最後の入院をした後は、口からほとんど物を食べられなくなってしまい、そのうち水分も取れなくなり、ホームの主治医は、「胃ろうを付けない限り1週間もたたないうちに亡くなりますから、今すぐ胃ろうをつける手術を行いましょう」と勧めました。どうするか、妹と悩みました。


母は、元気だった時に「人間は口から食べられなくなった時が寿命」とはっきりと言っていたのに家族も同意し、最後には叔母(母の姉)が「胃ろうなんてしたら悦ちゃん(母のこと)が可哀想。自分も叔父ちゃんも胃ろうはされないように一筆書いてある」と言ってくれたことで、そして、実際に手術を行う病院の医長さんが、「延命のための胃ろうはいたしません」と言ってくれたことが支えとなって、私たち姉妹は、母に胃ろうをつけることは断る決断をしました。でも、私が遠く離れたニューヨークから主治医にビデオ通話で冷静に伝えられたのと、実際にその結果どうなるかを目の当たりにした時の心境は大違いでした。

実は、私が東京の実家で自宅待機をしている間にも、母が入居していたホームの特別な計らいで、数日ごとに10分間ほどでしたが母を見舞うことができました。私はニューヨークで既に2回のワクチン接種を済ませていたし、帰国する前後にコロナ検査も受けて陰性の結果が出ているから大丈夫だろう、という主治医の先生と看護師さん、そしてホーム長さんの判断でした。平日は仕事がある妹も週末には一緒に。

久しぶりに会った母は痩せ細っていまい、疲れ切っているようでしたが、私たちが言っていることはちゃんと理解できるようで、言葉少なく意思表示も出来ました。最初の数回の面会では、私が娘のみどり(私の本名です)だということがわからない、と言いました。それでも、私が「みどりよ。ニューヨークから来たのよ。」と言うと、か細い声で私に、「お、な、か、す、い、た。もっ、と、た、べ、た、い」と訴えました。看護師さんに言うと、「そうは言うのですけど、食べられないんです。」と言います。最初は、

「ちゃんと時間をかけて食べさせてくれていないのではないか」

「食事の時間とか決まった時間に食べさせようとするのが無理なのではないか」

「私がずっと側にいて、少しずつ食べさせることはできないのか」と悩んだり憤りを感じたりしました。

「自宅介護は無理」と言われたにも関わらず、

「自分が帰国して自宅介護をしてしていたらこんなことにはならなかったのではないか」と後悔の念にも狩られました。


「アイスクリームだったら食べられるのではないか。こっそり持ち込んで食べさせてみようか」とも考えました。母が「美味しい」と言ってくれるのをもう一度見たい。その一心しかありませんでした。でも妹に相談すると、「アイスクリームは溶けるから、嚥下障害の患者に食べさせたら、誤嚥の危険が高い」ことを教えてくれました。健康な私たちにとって当たり前のスキル、「飲み込む」という作業ができなくなる嚥下障害について、私は良く知らなかったのです。急遽ネットで検索して勉強しました。

私と妹が揃って主治医の先生と面談をした後は点滴が外されました。母の血管はもろくなっていて、点滴の針を刺すのは大変な痛みを伴ったようです。「もう痛い思いをしなくて良かったね」と私が言うと、母は「よ、かっ、た」とゆっくり答えてくれました。点滴が外されると母は急速に弱り、声も出すことができなくなりましたが、最後までうなずくことと、首を降ること、そして動く方の片手で意思の疎通をしました。痛みはないようで、時々呼吸が荒くなるだけだったのには救われました。


食べられないことで弱っていく母を実際に見ているのは、母の寿命を私たちが決めたようで、生殺しにしているようで、正しい判断を下したのかわからなくなりました。「申し訳ない」と感じたのはそういう事です。非常に辛かったです。胃ろうをつける選択をする家族たちの気持ちが初めてわかりました。


母が入居していたのは、ベネッセ系の「ボンセジュール」という施設で、「ボンセ」の小さな個室、「303号室」が母の住まいとなり、入院すると「303のお部屋に早く帰りたい」と言うほど気に入ってくれたようです。体が不自由ながらも幸せな時を過ごせたと思います。私たちは母が好きな綺麗な色でインテリアを整え、家族の写真や絵で飾りました。


母は不満は遠慮なくはっきりいう人で、ボンセに行き着くまでは色々な苦情を訴えたのですが、ボンセのスタッフは「皆、優しい」と言っていました。母の最後の担当は、母が「モナちゃん」という名前で呼んだ、20代の可愛らしい女性でした。勤務外の時間を使って母に必要な物を揃えてくれるような優しい人でした。私たちに何でもはっきり報告してくれる、日本人には珍しいタイプの看護師さんもいました。母は兄が亡くなったことを忘れて、「息子が来たらあなたに紹介するわ。」と言ったそうで楽しみにしていたとか。母が「マスター」と慕った年配のダンディーなスタッフもいました。「マスターには私のオムツを変えさえないでね」と言って私たちを笑わせたこともあります。


巷では施設での老人虐待のニュースが絶えませんが、介護に従事する人のほとんどは、一生懸命仕事をしてくれているのではないでしょうか。そう信じたいです。


母の最後の二日間は、ボンセのスタッフが母の部屋と同じ階に私と妹が泊まれる部屋を用意してくれて、母の側にいることができました。コロナ禍なので、本当は入居者との面談は玄関で距離を取っての15分間のみが規則なのですが。通常はなかなか規則を曲げない日本にあって、ボンセのスタッフが、母との貴重な時間を私たちに与えてくれたことには感謝にたえません。母が病院に入院していたら、面会さえも許されなかったかもしれないのですから。


母が亡くなる三日前に、母はやっと私のことをわかってくれたようです。それがはっきりわかり、嬉しくて母の前で泣いてしまいました。


「看取ることができました」と書きましたが、実際は、ホームに泊まっていたのに、母が早朝4時前に息を引き取った瞬間に、私たちは母の側にはいませんでした。母が亡くなる前の晩、私たちは母の側にいたのですが、母がまだ動く手を、「あっちに行って。」と言うように動かしました。以前、妹が見舞う時にも、その時間が長くなると、「疲れたから帰って」とはっきり言う母だったようです。「疲れた?ひとりになりたい?」と聞くと、コクンと頷きました。なので、不安ながらも私たちは他の部屋に行って仮眠を取ったのです。

私は午前2時ごろに目が覚めて、母の様子を見にいこうか、と思ったのですが、せっかく眠っているところを起こしては可哀想、と思いながら又寝てしまい、4時前に看護師さんに、「お母様が息を引き取りました」と起こされ、慌てて母の部屋に行ったのです。母の最後に一緒にいてあげられなかったことが悔やまれますが、母は、娘たちに自分の最後を見せたくなかったのかもしれません。それはプライドが誰よりも高かった母が望んだことなんだ、と願いたいです。母の死に顔は安らかでした。痩せ細ってしまったとはいえ、最後までお肌がつやつやで綺麗な母でした。

事前に連絡していた葬儀屋さんに相談の上で、全ての苦悩から解放された母を家に連れて帰ることを選択し、妹も同意してくれました。母の遺体は棺桶ではなく母が使っていたベッドに寝かされ、まるでただ眠っているようでした。私は忙しく用事を片付けながら、普通に話しかけました。「ママ、うちに帰れて本当に良かったね」本当は母の遺体はドライアイスで囲まれていたので、「ママ、寒くてごめんね」と謝りました。小さな祭壇とお花も用意されてとっても綺麗でした。母が好きだったお寿司やうなぎを供えました。普通の硬さの虎屋の羊羹も。「もう何でも食べられて良かったね」と。母と過ごした二日間、私は幸せでした。

コロナ禍で緊急事態宣言も出ていますから、ほとんどの親類や母の友人がお通夜と葬儀に参加することを辞退して、私と妹、そして亡き兄の末っ子である甥っ子だけの3人でお通夜を行い、交代で起きて母を弔いました。このふたりがいてくれたことには心から感謝。この時期にひとりだったらどんなに大変だったでしょう。翌日彼らは一旦自宅に帰ったので、私は母と最後の時を過ごす事ができました。泣いたり笑ったり、とても貴重な時間でした。


2日後にお棺に入れられて火葬場に母を送り出した時は、初めて「ああこれでお別れなんだ」という実感が湧いて辛かったです。出来ることならそのまま母をずっと家に置いておきたかったです。火葬の日の午前中は、帰国した時は母と一緒に行っていた美容院へ行って、金髪にした髪の毛を何とかまとめてもらい、益田家の紋がついた母の喪服の着物を妹が着せてくれました。世代交代。「出戻り」でまた益田になっていて良かった、と思いました。


お骨になってしまった母とマンションに帰った時は淋しく、母の笑顔の遺影に話しかけながら泣きました。どうして遠い国に住む人生を選んでしまったのだろう、と後悔しましたが、父が亡くなった後、残された会社のひとつを継いで売却するまでの2年間、一年の半分は母と同居させてもらったために、母と沢山の時間を共有できたことは幸いでした。食べることが大好きだったけど、その頃はあまり料理をしなくなっていた母。料理ずきの私が出すものを「レストランみたい!」といつも楽しみにしていてくれたし、一緒に外食をしたり、美術館に行ったりショッピングをしたり。楽しかったなぁ~。


納骨は四十九日まで待ちたかったのですが、私の都合で、初七日に行いました。後で「早すぎた」と後悔しましたが。昔の人は、人の感情をよく考えて法事の時期を決めたんだと思いますね。ママ、ごめんなさい。

私は喪主で、相続の手続きも進めなくてはならない上に、実家の整理も私の役目ですから、ここ2週間悲しみにくれている暇はありませんでした。1日の大半は色々な手続きや作業に追われて、精神的には普通に戻れたかな、と思い、家族や友人と談笑したりも出来るのですが、ふっとした拍子に涙が溢れてきます。


両親、そして20年一緒にいた内縁の奥さんを2年間介護した経験がある私のつれあいにその事を書くと、


“It’s a roller coaster. Up and down. Sadness comes like waves.”

(ローラーコースターみたいなんだ。上がったり下がったり。悲しみは波のように来るんだよ)という返事が来ました。


その通りです。悲しみは、引いたかと思っているとまた波のように押し寄せてきます。こんな状態がしばらく続くのでしょう。


3人の子供たちは誰よりも素晴らしい、と信じてくれたママ。

私たちのためなら何でもしてくれる優しかったママ。

ママが、私たちのママで本当に良かった。

パパとお兄ちゃんには会えたかな。もうお尻が痛いこともないだろうし、好きな物を一杯食べられているかな。


死後の世界を信じていなかった私ですが、母のためにはそれがあることを願ってしまいます。

これからまだ生きていく私を、きっと見守っていてくれると思います。

ボンセのスタッフの方々、最後まで本当にありがとうございました! 感謝に絶えません。


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