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カミングアウト―私の人生をかたどってきた火傷


火傷を見せているココマスダ のモノクロ肖像写真
連れ合いの Stephen J Hill が撮ってくれた写真  photo by © Stephen J Hill


こんにちは。ニューヨークのココマスダです。

このブログで、私の娘が養子であることについてカミングアウトしましたが (米国側では全く秘密ではなかったことなのですが)、私にはもうひとつ、ずっと隠しながら生きてきたことがあります。

3歳の時に事故のために負った左腕と首のIII度の火傷の痕です。

この火傷の痕があることは、私の人生を全ての面でかたどってきました。

まだ若かった私の両親は、私が火傷の痕を見せないで済むように色々と尽力し、私を大事に育ててくれました。私がいじめらないように、差別されないように、との思いやりだったとは思います。

でも、日本では、今でこそ体に障害のある方たちが、ブログや本を書いたりする環境になってきたようですが、私が小さい頃は、何よりも世間体を気にして「臭いものには蓋をする」時代。自分たちが恥ずかしい思いをしなくても良いように、という思いもあったのではないでしょうか。

母親になってから、「こんな事に劣等感を持っていてはいい親になれない。」と思って、夏に長袖でない服を着る努力をした年があったのですが、その頃別荘を持っていたハワイでは出来ても、ニューヨークや東京の都会で火傷を見せる気にはどうしてもなれず、還暦を過ぎた今の今まで、完全なカミングアウトは出来なかったのです。

当時、私の母は冬の間、加湿のためにストーブの上にやかんを置いていました。

私には2歳年上の兄がいて、二人ともやんちゃな年頃。その時二人が何をしていたのかは覚えていませんが、喧嘩でもしていたのでしょう。兄が私を押して、私はストーブにぶつかり、やかんがストーブから落ちて、私の左腕と首は熱湯を被ってしまいました。

私の腕の火傷の痕は、これからお話しするふたつのことが原因で、必要以上にひどくなってしまったそうです。

ひとつ目は、母が火傷の応急処置を知らずに、私が着ていたカーディガンを脱がせてしまったこと。そうしたことによって、私の腕の皮も剥がしてしまった訳です。考えただけでも痛そうですね!

熱湯で火傷を負った場合、洋服を着せたままで冷水をかけ、冷やした後で病院に駆けつけるべきだそうです。

母は、後で医者に知らされてその事を知ったそうです。「本当に可哀想なことをした。」と教えてくれましたが、こんな経験でもしなければ知らないことですから、仕方がなかったことだと思っています。小さいお子さんをお持ちの方は覚えておきましょうね!親となる人は全員、いや国民全員が基本の応急処置を学ぶべき。

ストーブに向かって私を押した兄を恨んだこともありません。やんちゃな子供たちの間に起こった事故ですから。兄が罪の意識を持っていたか、はわかりません。彼はそのことについて一言も触れたことがないまま、数年前に亡くなりました。

ふたつ目は、私の両親が最初に私を連れて行った近所の病院の主治医の先生が、丁度休暇を取っていたために適切な治療がされず、火傷が化膿してしまったこと。

そのことを知らされて怒った父が、私を慶應病院に転院させ、私の小さな足の腿からの皮膚移植が行われ、退院してからも何年も通院した記憶があります。そのおかげか、私の左腕は、少なくとも動かすことでは何の支障がないのですが、両腿にも傷痕が残りました。「どうしてまともだった足を傷つける選択をしたのか?!」と、ずっと悔しい思いをして育ちました。

3週間入院をしている間の小さな私は、そんな経験をしても、持ち前の明るさで病院の人気者だったとか。でも私は、私の親にとって「お荷物」になってしまったことを知りました。

父が私をおぶって病院から帰る時でしょうか、私が眠っていると思った父は、一緒にいた母に言いました。

「僕たちは、これからずっと重い十字架を背負って生きていかなければならないのだよ。」

自分が親にとってそういう存在だ、と知った小さな子供の気持ち、わかりますか?

小学校の低学年の頃は、何を言われようとまだまだ外向的で明るかった私ですが、高学年になって異性を気にする年になると、だんだんと悩むようになりました。「こんな私を好きになってくれる男の子はいるんだろうか?」

そんな私に父は優しく言いました。


「お前と結婚したいと思うような男性は現れないだろうから、一生うちにいていいからね。」

父としては、可哀想な娘のことを思いやって言った訳です。でも、自分の妻に、美しくいてくれる事を第一に望んだ父の考え方が現れています。私は大好きな父の言葉を鵜呑みにして、それでも向上心と野心は人一倍ありましたから、「自分は自活できる女性にならなければ!」と誓ったのです。

先週、小池百合子都知事に関する暴露本を読んだばかりですが、彼女が顔のあざを隠すように育てられたことを読んで、なんだか似ているな、と共感を覚えました。

私の母も美に生きている人で、美しくなるため、着飾るためのお金と努力は厭わない人でしたから、私にも外見がどんなに大切か、を教えました。

その頃は長袖の夏用子供服など売っていませんでしたから、私の夏服はほとんど仕立て。

母が作ってくれたり、オーダーメードだったり。とてもファッショナブルな服を着て育ちましたが、暑苦しい日本の夏にずっと長袖。アメリカに移住してからも、長袖しか着ない人生を過ごしてきたのです。

でも、学校の夏の運動着と水着だけは、校則に従わなければなりませんからどうにもなりませんでした。

小学校のプールでは、「火傷のお化け!」と男の子たちに言われました。

私は幼稚園の頃から舞台に上がることが大好きで、小学生になるとバレエを習い始めました。でも、初めての発表会の時に、一緒に踊った子達全員が、私の火傷を隠すために、コスチュームに長袖のパフスリーブをつけることになったのです。先生の思いやりだったわけですが、皆にそんな迷惑をかけたくない!と思ってバレエを辞めました。

運動神経は抜群だったのでスポーツも大好きでしたが、火傷の痕を見せることになる大会に出ることは断固拒否、出ないといけない、と言われるとその部活はやめました。中学になって始めた体操部を辞めてからスポーツは完全に諦め、外見とは関係なく活躍できそうなアートに傾倒していったのだと思います。

大人になってから、長袖の胴着を着て稽古ができる空手に出会いました。それでも合宿に参加した事は一度もありません。参加したくても、火傷を隠し続ける事は難しそうなことを考えると参加する気になれませんでした。子供たちが見たらどう思うだろう、とかも。何をやっても、火傷のために中途半端な活動しかできませんでした。今考えると何という無駄をしてきた事でしょう。「火傷など気にしないで好きなことをしたらいいんだ。」と親が励まして育ててくれたら良かったのに!と思います。でも、両親の事は恨んでいません。日本の社会で、彼らは彼らなりに最善を尽くしたのだと思います。

20代後半になって、母から手紙が届きました。

私の父はゴルフが大好きで、母も父の要望でゴルフを始め、日本とハワイでいくつかのカントリークラブの会員になっていたのですが、ある日クラブハウスで、私と同じような火傷の痕がある若い女性が、半袖のポロシャツを着ているだけでなく、とてもハンサムなご主人らしき男性と明るく談笑しているのを見かけたそうなのです。その時母は、私を「火傷を隠すように育てたこと」がいかに間違っていたか、を悟ったそうです。「あなたの人生を台無しにしてしまって、本当に申し訳なかった。」と書いていました。

自分の無知で火傷の痕をひどくしてしまったこと、今度は自分たちの子育ての仕方が間違っていたことを悟って、母はどんなに苦しんだことでしょう。「私は全然恨んでいないから。」という返信をした上で、ハワイで会った時に、火傷を隠さない服を着てあげました。母は、「火傷が平気になって良かった。」と安心してくれました。本当はまだ全然平気ではなかったのですが!

父の予想に反して、私は恋多き半生を送りました。実際には、火傷のために私を嫌がるような男性はほとんどいなかったのです。若い頃は美人でもないのに男性には結構もてて、私の火傷を知った上で、女神のように崇める男性も何人もいたし、20代には複数の男性に求婚されました。

でも、いつも「火傷のことがわかったら嫌われるだろう」「いずれ私より綺麗な人と浮気をするだろう」と言う気持ちがあったために、好かれても、「どんな女性とも付き合えそうな」ハンサムな男性や、お金持ちの男性は避けてしまったのも事実です。高校生の時に父の浮気騒動があったことも、自分の生き方に大きな影響を与えました。

私が長年背負ってきたコンプレックスを解消してくれたのは、我が娘と、2年前から付き合っている男性です。

数年前の夏、娘が素敵なサンドレスを着ているのを見て、私が

「サマードレスは大好きだけど、ママは着られないからなぁ〜。」というと、娘がこう言ったのです。

“You sure can, but it is your choice not to wear it.

Who cares what people think?”

「着られるけど、着ないのはママのチョイスよ。

人が何を思おうと関係ないじゃない。」

「本当にそうだ、私のチョイスなんだ!」と思いました。それでも、サンドレスを着てニューヨークや東京の街を闊歩し、知り合いや近所の人にも見られる勇気はまだなかったのです。

私の彼、写真家のスティーブ、と出会った経緯を話すと長くなるので、これは他の機会になりますが、彼はちょっと変わっているのでしょうね。

まだ恋仲になる前に、

「この人には最初から知ってもらいたい。」と思ってタンクトップを着て会うと、


"Scars Make a person unique, don't you think? "

「傷痕は、その人をユニークにすると思わないかい。」

と言って、興味深そうに私の火傷を触って観察したばかりでなく、隠さないで出す事を奨励しました。

去年の夏、彼と一緒の時には火傷を隠さないで外を歩けるようになり、ほとんどの人が私のことなんか見ていない、火傷にも気が付かないことがわかって驚きました。子供たちも同じく。

私よりずっと目立つ障害を持っている人たちは沢山いるのに、私は57年間、こんな事を気にして、どんな暑さも我慢したばかりか、自分のやりたいことも諦めて生きてきたのです。馬鹿らしい!何と人生の無駄をしてきたか!と思いました。

少なくとも、火傷の痕があることで、他人の悩みを思いやれる人間になりました。火傷の痕がなかったら、結構傲慢な人間になっていたかもしれない、と思います。だったら、火傷を負った事は私にとって良かったのかな、と今は思えます。

今年の夏は100%コンプレックスが吹っ切れて、火傷を隠さないでも平気で外に出られるようになりました。これからは、今まで着られなかった素敵なサンドレスも沢山着ることができるし、違った人生を送れることが嬉しいです。



photo by © Stephen J Hill


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