娘の産みの両親との契約



こんにちは。ニューヨークのココマスダ です。


お待たせしました。

「私の娘は養子です。その3」を書いてから10日も経ってしまってごめんなさいね。

娘の産みの両親との契約についてお話ししましょうね。


私はあまり過去の事って考えない性格で、嫌だった事、恨み事などもどんどん忘れていきます。

人に何かを聞かれて、引き出しを開けて思い出す、って感じです。

娘を養子に迎えた頃の事も同じく、です。


娘の産みの父親は、当時18歳で、ちゃんと責任とって結婚して出来てしまった子を育てたいと希望したようですが、アイリッシュ系の当時まだ高校生だった産みの母親は、自分もシングルマザーに育てられたために、自分たちはまだ若すぎる、お腹にいる子には、両親揃った、そして自分たちと同じ白人とアジア人のカップルに愛されて育ててもらいたい、と考えたそうです。


ここでは産みの母親をA、父親をDと呼びますね。


Aが中絶を選ばなかったのはカトリックだったから。娘がこの世に生まれてくる事が出来る選択をしてくれたことは、なんとありがたいこと! 女性の性と生殖に関する権利はもちろんサポートしますが、娘を養子に迎えてからは、中絶に関する気持ちが複雑なのは確かです。

大きくなるお腹を隠して高校に通うのは辛かっただろうと思います。彼女の母親は看護婦さんだったし、自分はシングルマザーで一人娘を育てたので、彼女の決心を全面的にサポートしてくれたようです。


私たちがお世話になったエージェンシーから聞いたところでは、産みの両親が揃って養子縁組の手続きをするのはかなり珍しいそうです。


AとDは、自分たちの子供を養子に出すことを選んでも、

「それはその子がより良い人生を送ることができるように」であって、生まれてからも自分たちが子供に会い続けられる事を希望しました。


法的な契約では、「4年の間、一年に2回、子供に会う機会を作ってくれること。その後のことは話し合いで決めること。会えない時は、時々写真を送って欲しい。」と要求し、私たちはそれを承諾しました。


私たちは、娘の成長を彼らに知らせる事を約束し、その頃はまだメールもやっていない頃でしたから、手紙を送り続ける約束のシンボルとして、それぞれにティファニーのシルバーのペーパーナイフを送りました。


私たちは、娘を連れて二人に会う機会を "Visit" (訪問)と呼び、一年に一回は気候の良い春から夏にかけて屋外で会い、もう一回はクリスマスの時期に会おう、と決めました。


ほとんどのVisit の詳細は記憶から消えてしまいましたが、娘を養子にしてまだ数ヶ月後の、セントラルパークでの1回目の訪問の事はよく覚えています。


AとDは嬉しそうに娘を抱いて、私たちから少し離れた芝生の上に座って時間を過ごしました。私と元夫は彼らが見えるところで待ちました。


二人と娘はどう見ても幸せそうな家族。

それを見ているのは辛くて涙を堪えるのが精一杯の私でした。

可愛い赤ちゃんと時間を過ごしたら、子供を返して欲しくなるのではないか、って心配しましたよ。


元夫がそれを全然わかってくれなかったのも辛かったなぁ〜。

彼は、


" Since they are so young, they will get busy with their own lives and will eventually disappear.

(彼らはまだ若いから、しばらくしたら自分たちの人生が忙しくなっていなくなるさ。)


と高を括っていましたが、私はそうは思いませんでした。

この人はいなくなる人じゃない、とAのことを思いました。


2回目の訪問は、クリスマスの一週間前に、AとDを自宅に迎えて行いました。

彼らも娘とクリスマスを祝えるように、との配慮で、

それまでにクリスマスツリーを飾り、ご馳走も作りました。


彼らは娘への大量の!ギフトを持って現れました。

そして、娘の写真やビデオを撮りまくりました。


娘には、彼らが誰なのか、は物心がついた時には話しました。

ここら辺の対応はどうしたら一番良いのか、は養子縁組に関する色々な英語の本を読んで決めた事ですが、

娘が大きくなってから真実を知ってショックを受けたり、自分の親はどこにいるのか、と探すことにエネルギーを費やしたりする事を避けられた方がいいと思ったのです。

AとDが遠い親戚のような存在になってくれれば、と思いました。


ひとつ、はっきり覚えているエピソードがあります。


娘が3歳にもなっていない時の屋外での「訪問」の後、

夫は仕事場に戻り、私は自宅で娘と夕食をとっていて、ワカメとお豆腐のお味噌汁を作ったので、

私は娘に、「ワカメは髪の毛にいいからちゃんと食べるのよ。そうしたら、A のように綺麗な長い髪の毛になるからね。」


そうしたら、娘が


"Don't talk about A!"

Aのことは話さないで!

って叫んだのです。


「でもどうして?」とびっくりした私が聞くと、娘は私の目を真っ直ぐに見てこう言いました。


"They didn't love me when I was a baby.
If they say they love me, I really don't care.
But if you say you love me, that's really beautiful."

彼らは私が赤ちゃんの時、私を愛していなかったの。

もし彼らが私を愛しているって言うのなら、それは私にはどうでもいい事なの。

でも、ママが私を愛しているって言うのは、とてもすばらしい事なの。


私は絶句しました。

まだ3歳にもなっていない子の言葉ですよ!


私は、小さな娘の心が深く傷つき、でも私を愛してくれている事を知りました。


それから、娘が産みの親に対して怒りを感じている事はしばらく感じました。

きっと辛かったと思います。

私は、彼らにはどうしようも出来なかった状況と、娘を愛しているから養子に出した事を説明し、彼女が皆から愛されている事をわからせる努力をしました。


でも、何回か参加した養子縁組エージェンシーのセミナーで、養子に出された子は、どんなに親が努力しても、埋める事が出来ない喪失感、Sense of loss、を持って育つ事を学びました。

娘は非常に明るい子ですが、それがあるのは確かです。


産みの親との「訪問」は4年以上続きましたが、そのうち彼らは別れ、D は来たり来なかったりするようになりました。正直言って、

「Aもいなくなってくれたらいいのに!」と思った事もありましたよ。


でも私とAは長年の間に娘とは別に友情を築き、今でもやりとりを続けています。私と元夫が離婚することになった時、私はAに申し訳なくて謝りました。娘に両親が揃っている家庭で育って欲しいと思って私たちを選んでくれたのに、その期待を破ることになったのですから。


でもAは私をちっとも攻めず、P (私の元夫)は嫌いだった、と言いました。


You are the one who always welcomed D and I. I really appreciate it.

Dと私をいつも歓迎してくれたのはあなた。とても感謝しているの。


私とAの母親はほぼ同年代。Aが私の娘であってもおかしくないのです。Aの母親には娘が産まれた時に病院で会いましたが、肝っ玉母さんのような優しい人でした。でも彼女はその数年後、55歳の時に脳溢血で急死してしまい、私はAに、「これからは私をお母さんのように頼ってくれていいから。」と言っていたのです。


娘が13歳になった頃から、Aは年に1、2回娘と二人で会うようになりました。私はすっかり娘の母親になっていたので平気でした。娘が良いようにすれば良い、と思いました。でも。娘は16歳になった時に私に言いました。


I don't want to do the visit anymore. It really doesn't make sense to see A.

もう訪問はしたくない。Aに会うことに全く意味を感じないから。


Aは職場で優しくて素敵なボーイフレンドを見つけ、10年以上同棲した後に、2年前に結婚し、私はコネチカカットでの小さな結婚式に呼ばれて行ってきました。日本人からしたら理解できない感覚かもしれませんね。娘も招待されたのですが、彼女は元夫とハワイへの旅行が決まっていてそちらを選びました。

Dも去年結婚し、家も買って幸せそうです。


娘は3年間産みの親に合わなかったのですが、大学が決まった後に、また心を開いて、外で彼らと食事をしてきました。ひとりで会うのは気まずいから、と親友を同行させました。AとDとの関係が復活して良かったと思います。私と元夫は娘の親としては歳をとっていますから、いずれ私たちがあの世に行った後に、彼らが娘のためにいてくれるのはありがたい、と思うのです。


娘を育てさせてくれてありがとう! 母親にしてくれてありがとう!


心から感謝、です。





 

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